筥崎宮の放生会
はこざきぐうのほうじょうやまいり
博多の三大祭
9月12―18日
 
放生会 江頭光
(画文集博多新風土記より 福岡文化連盟 昭和58年5月刊行)


放生会は養老4年九州南部にまつろわぬ隼人族を征伐したあと、それによる彼我の霊を慰めるために始まったとされる。筥崎宮のそれは延喜19年にさかのぼり、往古、この宮が嘉穂郡筑穂の大分に鎮座したころは、大宰府政庁官人たちの参詣もあったという。
もとは仏教の殺生戒に基づき、けものや鳥、魚を放って供養した。黒田藩時代は神社で鳥を、境内の池でコイ、亀を放ち、期間中は石堂川から多々良川まで、川漁、海漁とも禁止された。明治維新後の神仏分離で、正式には中秋祭と改められたが、永年親しまれた呼び名は変わらず、地元ではなまって「ほうじょうや」と呼ぶ。

明治絵巻を彩ったのが幕だし。町内ごと、長持ちに食糧、食器を入れ、道中歌を競いながら、箱崎浜に繰り込み、当時「千代の松原」「十里松原」と呼ばれた林間に幕を巡らせ、飲めや歌えの野宴を張った。なかにはふろオケを持ち込んで粋がる商家の大将もおり、明治末の好景気には、博多から相生券番まで出て開帳したものだそうだ。

「人を見るなら宰府の祭り、衣装見るなら放生会」放生会着物といって、女たちは、この日のため晴れ着を新調する習慣があった。ことに娘たちは二度、三度、衣装を替えて楽しんだ。そのころ商家の休日は月に二度、一日と十五日だけ。まして女たちにとって野外のリクレーションの機会は少ない。命の洗濯であり、心の開放日でもあったろう。このにぎわい、大正の末、数年間で松林が枯れはて終止符をうった。もっとも、明治半ば、小学校の運動会が各校とも東公園で盛大に開かれるにつれ、しだいに人気を奪われていたのだとも聞いた。

「ナシもカキも放生会」ことわざどおり、露天をナシ、ッカキ、クリや葉つきの新ショウガがみずみずしく彩り、名物のチャンポンも十年ほど前から復活している。ガラス管の先を漏斗状にふくらませた郷土玩具で長崎渡り。歌麿の錦絵に描かれた江戸のビードロと同じく、吹くと薄い底がチャンポン、チャンポンともピンポン、ピンポンとも鳴るというのでその名がある。

残暑まだ厳しいが、放生会を区切りに、和服は薄物から単衣の季節。たとえ汗が出ても、もう夏物は野暮とされる。こんなところも博多の粋というものだろう。

私の思い出では兵隊から帰って、ここで初めてストリップを観た。狭いムシロ張りの小屋は大入り満員。はいていた下駄を二つ重ね、伸び上がって観ると、これはまた山ダヌキのようなドンバラ娘が、めめさんに赤い天狗の面を当てて踊っていた。「ああ、平和がよみがえる」と感動したのを覚えている。

それと戦前まで名物だったのがバナナのたたき売り。なぜだか縮みの半そでシャツと肉色毛糸の腹巻が売り手の正装で、抑揚おもしろく「生まれは台湾台中で、金波銀波の波越えて、着いたところが門司みなと」「よんぱちゃ(四八)久留米の連隊で、いつも戦は勝ち通し、私のバナちゃん、負け通し」「このバナちゃん買うたなら、奥の四畳半に持っていて、うんす、うんすで子ができた」などと巧に売りさばく。
これらの文句、たぶん全国共通だろうが、「私のバナちゃん食べてたなら 、すえは博士か大臣か」のあと、筥崎宮の放生会では「それとも伊藤の伝ちゃんか」とあるのが石炭王・伊藤伝右衛門に取材して博多独特と思われる。この秋祭りに全国の香具師が集まり、あと三々五々と各地に散っていく。夏の終わり、また秋の初めでもある。

 


行事 の時間等は筥崎宮にご確認ください。
行事 時間 行事 時間
12―18日 大絵灯篭(絵馬殿) 終日 15日 筑前博多ごま奉納 19時30分
12日

御神興行列(お下り)

18時 15日 博多金獅子太鼓奉納 20時30分
13日 大道芸大会(絵馬殿前) 13時より 16日 石見神楽奉納 19時
14日

博多町人文化連盟幕出し

お神興行列(お上り)

15時

19時

18日 放生神事と稚児行列 14時
15日 放生会大祭 10時      

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